三十路女のくだらない日々。


by kutuganaru
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全否定=全肯定

松尾スズキはすごい。

志村けんならまだしもなんとあの南原清隆に間違われたり、ラクガンひとつであんなに思考できたり、著名人有名人を木っ端微塵に打ち砕いたり、酔っぱらった第三の役立たずの前でひたすらまじめであったりと、とにかくすごい。

『クワイエットルームにようこそ』にハマって、思えば『恋の門』も面白かったんだけど、文庫本買いあさって『クワイエット・・・』『大人失格』『この日本人に学びたい』『第三の役立たず』と、4冊読んで、映画版『クワイエット・・』で感じたものは間違いじゃなかったんだなあ、と思った。
それが、タイトルの「全否定=全肯定」という言葉。
これは『第三の・・』の中で松尾スズキにインタビューを受けている鶴見済(「完全自殺マニュアル」著者)が言ったのであるが、鶴見済がようやくたどり着いたこの境地は、松尾スズキには前提みたいなものであるという。まあだからこそ、『この日本人に・・・」なんて危ない本書けたのかも知んないけど。

はっきり言って私は真面目すぎるくらい真面目である。
下ネタも苦手だ。
端的に言えば、あまり面白くない。
そんな私が、シャブとかオナニーとか平気で言いまくる松尾スズキの著書にこんなにハマってしまうのは、「全否定=全肯定」という、全てのものに対する「愛」が滲み出てるからだと思うのだ。
どんなに悪態ついても、一見全否定しているように見えても、小馬鹿にして鼻で笑うような事をしようとも、人を「わかってる、わかってない」で簡単に分類しちゃおうとも、そこに愛があるからこそ私は全く嫌悪感を抱かずに、ただただ楽しんで読める。
失礼が失礼にならないのは、そこに尊敬や愛があるからだ。

そして、もう一つ忘れてはいけないのは、松尾スズキが誠実で真面目な、「内面的には9時5時気質の男」である点だと思う。
例えば仕事をすっぽかしたり、店員に暴行を働いたり、覚醒剤所持とか飲酒運転とか、女遊びとか、必ず時間に遅れてくるとか、まあ何でも良いけどなんか凄い人って武勇伝的なのある人多い気がするんだけど、そういうの全くない。
なんか真面目。普通。いたって普通。一見ちょっと危ないただの中年親父。
最近はブログまでチェックしちゃってるけど、なんか料理好きみたいだし。
炊飯器買って喜んでたし。

最も共感できるのは、なんか「メッセージ性を持たないようにしてる」とか「やる気でございますってスタンスがなんかどうも」って感じとか、まあつまり「努力が嫌い。「がんばれ?」ぺっぺっ」という態度だ。
『クワイエット・・・』でも主人公明日香は「言いたい事など何もない」みたいなことを言っていた。
私は結構、言いたい事って、持たなきゃいけないような気がしてて、やりたい事とかもなきゃいけないような気がしてて、だから別に言いたいことなんてあんまないんだよねーとか薄々感じてんだけど、それじゃだめだからってんで無理矢理言いたい事つくってべらべら無意味に垂れ流してる感じをどっかでなんとなくだけど感じてて、しゃべればしゃべるほど真実からはどんどん遠ざかっていく感じがするし、それじゃまずいってんでまたさらにその距離を埋めてなんとか真実に近づけなくてはって思ってまたべらべらしゃべって、どんどん遠ざかって・・っていうマイナススパイラルに取り込まれていってにっちもさっちも行かなくなって、うわーーーって、一人で頭抱える感じもなんとなくだけど感じてて。
そーゆうの結構つらいんだけど、つらいのを「私つらいです」って顔していうのもなんか違う気がするんだけど、じゃあどうすりゃいいんだよっていうのも全然分かんなくて、とりあえずヘラヘラ笑ってごまかしてる時に、なんかドンピシャリ、言葉を当てはめてる人がいるなーと思ったら、松尾スズキだったのだ。

面白みがないだけの薄っぺらい私は、日々のしがらみが厳しいわ手抜き加減わかんないわ、空回りしまくるわ、なんかとにかくヒーヒー言いながらじゃないととても生きられないんだけど、まあそれでもいいじゃない。事なかれ主義上等、楽しくいきましょうや、っていう感じが、たまんないす。いいす。

ってこうやって書いててもやっぱり真実にはあまり近づいてない感じするし、例に漏れずまんまとマイナススパイラルの罠にハマっている私なのであった。いと虚し。
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by kutuganaru | 2007-12-26 09:13

生活しずらい

やべー部屋めっちゃきれい。

レンジ磨いた。ガス台磨いた。油全部拭き取った。
冷蔵庫洗った。飛び散ってたわかめとか、お茶のシミとか全部拭いた、隙間が空いてて解けた後再び固まって冷凍庫にくっついてた冷凍物も捨てた、流した。
ユニットバス洗った。トイレカバーとか全部洗濯した、水垢磨いた、髪の毛流した。
床ピカピカ。掃除機掛けた、クイックルワイパーした、水拭きした。
ホコリ全部取った、ウェーブした。
本棚整理した。著者ごとに並べ替えた、何度も読みそうなの手前に持って来た、もう絶対見ないような学校のプリント捨てた。
カーテン洗った。
カーペットにローラーかけた。
布団干した。
パソコン周りにおもちゃ並べてみた。
溜まりきってた新聞捨てた、別マも半年分くらい一気に捨てた。
クローゼットの中の2年以上着てない服および黴びてる服捨てた、掃除機までかけた。

もう裸足でフローリング歩いて足の裏がホコリまみれになることない。
洋服が探せないために同じ干してる服から順に着ていくというエンドレスルーティンからも抜け出した。
友人が突然訪ねて来て、トイレの借用を要求して来ても、ためらうことなく案内できる。ついでに風呂まで入れても良い。
相手さえいて連れ込もうと思えば、男も連れ込める。(まあ相手いないし、実際連れ込みたいという欲求も皆無なので、実現可能性ゼロなのだが。)
もうこれで、ホコリアレルギーによるくしゃみで、1ヶ月弱で箱ティッシュ5箱使い切ることもないかもしれない。

しかし、ここまで気合い入れて掃除してみて思う事。
それは、生活しずれーーーー
という事である。
普段の掃除と言えば、床に置きっぱなしのお菓子の袋を捨てる事、散らばってる洋服を洗濯前と後に分け、洗濯機に入れるorたたんでタンスに入れる事、開いてる引き出しを閉める事、くらいである。
こんなにきれいになったのは、この家に越してきたとき以来と言っても過言ではない。
この家で、私はくつろげるのだろうか。

風呂に入っては髪の毛をなるべく落とさないようにそうっと髪をふき、床を裸足で歩いて汗が床に付着するのを恐れ、外出後の外気に触れた体で部屋に横になる事を躊躇い、油がはねる事を恐れて料理もろくに出来ない。って料理はもとからそんなにしないけども。さらにはホコリが舞い上がることに敏感になる余り、なるべく動きたくないとすら思っている。

ああ、私の髪はどうしてあんなに抜けるんだろう。
私の手足はなぜこんなにも汗をかくんだろう。
鍋はなぜ吹きこぼれるのだろう。

あと1週間弱。家に客が来るまではなんとしてでもこの部屋を死守せねばならぬ・・・

そんなこんなで、身動き取れない私。

どーせーっちゅーねん。
そりゃエセ関西弁も飛び出しますがな。
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by kutuganaru | 2007-12-25 14:37
私は愛だの恋だのを薄っぺらくさも当たり前の様に描いている漫画、小説、トレンディードラマ、ラブコメ映画etc..が苦手である。
嫌い、とは言えない。というか分からない。
なんとなく嫌いなような気がするだけの、苦手なものには、手を出せないでいるからだ。
だから私は、江國香織や唯川恵、『恋空』や『いま会いにいきます』などにほとんど触れた事がない。触れてみれば意外と面白かったり感動したり、感極まって泣いちゃったりするのかもしれないけど、その扉を開けるような冒険は、あまりしない。
でも間違って『世界の中心で愛を叫ぶ』を映画館に見に行ったりもする。
それと同時に、かどうかは分からないが、川上弘美や小川洋子やいくえみ綾は大好きだし、『ニューシネマパラダイス』も好きだし、野島伸司脚本のドラマも大好きだ。
私はそんなバランス感覚(アンバランス感覚)を持ち合わせている。
野島伸司と言えば、次の月9は久しぶりに脚本を書いているらしい。
香取慎吾のムリヤリ感と竹内結子の鼻の穴はたぶん気になり続けるけど、野島伸司なので見るしかないです。
一時期「ストロベリーショートケーキ(?)」で限界を感じ、「あいくるしい」を見逃して相当後悔しているので、もうこれは確実に見ます。
なぜ私が野島伸司を好きなのかというと、セリフや役者使いの決定的なわざとらしさ、不自然さにつきると思います。
言ってる事がわざとらしい、ドラマだからまあ当たり前の事である。
しかし、多くのドラマが、わざとらしい事に気づいているのかいないのか、あたかもこれが日常ですよ、といった風情でやりすごしている。これは別に役者の演技力うんぬんの話では全くない。野島伸司作品では、どんなに有能な役者(まああんまり登場しないけど)でも、悉くわざとらしい。
ドラマそのものや、自らの主張、理想がどれだけ不自然な事なのか知っているわざとらしさである。それが、私に好感をもたらす所以かと、勝手に分析してみた。
そう勝手に納得してみると、なるほど、私の好きな岩井俊二にしても川上弘美にしても、どこかにわざとらしさや不自然感が漂っているではないか。
そして、その表現はもう絶対にわざとらしくて不自然に違いないのに、それらを全く普通のものとして汲み取る掬い上げるその優しさが、私は大好きなのである。
その点いくと、小川洋子というのはもう神の領域。本人の顔にまで、その優しさが滲み出ているではないか。

さて、タイトルは舞城王太郎の著書である。最近めっきりハマってしまって登場頻度が相当高い舞城氏は、かなりのロマンチストであり、優しい人であると、私は踏んでいる。
こんなに分かりやすい形は他にあんまり見当たらないみたいだが、もうどっぷり恋愛小説である。はっきり言って、目に涙がにじむところまではいきました。
体内中に這う虫が彼女の肉体を蝕み続け最終的に光り出したり、夢の修理人の言いつけ通りコンクリートに下半身埋まったおばちゃんを助ける夢を見たり、と、あまりに想像力が豊かすぎると嘔吐を催しかねない描写は多々あるが、舞城はそんな描写を用いて、パスカルの「愛しすぎていないなら、充分に愛していないのだ」という言葉を自分なりに表現している(のだという私の勝手な解釈)。
ところで私がこの本を購入したのはヴィレッジバンガードであり、そこには様々な商品に店員のコメントがつけられているのであるが、この本には「石原慎太郎が酷評。ってことは面白いってこと」みたいなコメントが貼付けられていた。
え、酷評?この本を?私はその酷評を目の当たりにしたわけではないのでわからないが、きっとこういう本を酷評するような人って言うのは、『バトル・ロワイアル』が青少年に悪影響与えますとか、映倫審査をもっと厳しくしたらどうかとか、平気で言っちゃうんだろうなー。
『オーシャンズ11』見て万引きだか強盗だかした少年たちが問題になっているらしいが、『オーシャンズ11』は悪くない。『オーシャンズ11』が悪いとしたらそれは豪華キャストを使った割におもしろくなかったという一点に尽きる(あ、ごめんなさい、見てないです)。『オーシャンズ11』を審査した映倫も悪くない。
少年たちは確かに悪い。バカだ。でもこの場合責められるべきは、そんな少年しか育成できない社会じゃないのか。それを自覚しないで表現弾圧ばっかりしてるから、バカな青少年しか育たなくなっちゃったんじゃないのか。
って、なぜ私がこんなに熱くなっちゃったかというと、先日まで書いていた卒論のテーマだったからであって、卒論という場においてはやっぱり何重ものオブラートに包んで書かなくてはならなかったため相当フラストレーションが溜まってしまったからなのであります。
バカな大人からはバカな子供しか育たないし、そのバカが大人になって育てる子供も、そりゃあバカになるんじゃい。
って、じゃいってなんだじゃいって。
そんなバカに育てられてもバカにならない方法は、もう表現にどん欲に食いついていって、免疫つけるしかないじゃないか。その方法すら絶とうってのかい。一体どうなっちまってんだい、日本は。
とかいってますけど、実際アメリカその他先進国は日本よりかなりレイティング厳しいみたいです。でもマリリンマンソンは『ボーリングフォーコロンバイン』でこういっています「俺がダメなアメリカを作ったんじゃない、ダメなアメリカが俺を作ったんだ」と。
結局のところレイティングなんてのはごまかそうと思えばどうにでもなるもんだし、だいたい18禁のエロ本やAVを見た事のない男子中高生というのは一体全体の何割いるんだかも微妙なところである。ってゆうか私の予想だけど、ほぼいないと思う。
そんなあんまり意味ない規制強化に躍起になってないで、する事他にいくらでもあんだろとか思っちゃうわけなんだけど、まあ結局卒論では全く言えずに終わった本音をこんなとこで言っている私も、自由じゃない人の一人だ。

で、結局何の話だっけ?
そうそう、舞城氏の『好き好き大好き愛してる』はタイトル通り愛に満ちた作品で、その愛っていうのは、先に述べた野島伸司や岩井俊二や小川洋子なんかと同じで、万人に向けられた愛であり、愛があるからこそ成り立つ暴力描写なのであり、それは私がいつも心がけているところなので非常に共感できるものなのだ。
高校3年生のとき、「毒舌な人第3位」というなんとも触れにくい肩書きを与えられた私も、嫌いな人や興味すらない人に毒舌は吐けない。そういう人には、ものすごく優しく接しているつもりだ。そして8割型その愛は相手に伝わるが、2割の場合、毒舌によって避けられたり苦手とされたりするので、人間関係ってのはほんとに難しいもんだなーと実感するわけなんだけど、結局あたし何が言いたかったんだろう。

①野島伸司のドラマが楽しみ
②竹内結子は本当に美人なのか
③男子中高生時代にエロ本を一度も見た事ない人募集
④石原慎太郎の凄さは石原裕次郎の兄であるという一点に尽きると思う。

まとまりつかないから終わり。
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by kutuganaru | 2007-12-21 21:03 |

楽して生きたい

私は意外と、まあ別に意外じゃないかもしんないけど、外見コンプレックスが相当強い。
なんだか自分の外見がものすごく嫌いである。
スッピンを佐々木小次郎に似ていると言われた事は前に書いた気がするが、もうそれが褒め言葉だろうがなんだろうが、けなされているようにしか感じない。
酒井若菜に似ているともてはやされた事もあるが、どこをどう間違ったら、似た系統のパーツでこうも違ってくるんだろうか、謎だ。

ってゆうか自分がブスでも全然いいんだけど、問題は、美人ばかりがもてはやされる世の中である気がしてしょうがないことだった。
逆に美人ていうのは内側からわきでるものもあるんでしょうけど、まあ外見なんて生まれつきや育ちとかそういうのが結構高い割合で関係していると思うし、そういう先天性の何者かによって差別されてる気がしてしょうがなかったのだ。
佐々木小次郎の他にも、幼稚園のとき先生が誘拐犯がいるので注意しましょうとアナウンスした際、当時好きだったタケシ君という男の子に、祥子ちゃんは心配ないねーと笑顔で言い放たれてしまったり、中学生のときには、古宮先輩妹に顔似てなくてかわいそうとか同情されたり、高校のときは、ケーキを食べようとする私をみてクラスメイトが悲鳴をあげた。
まあ最後のは単に私が太っていたからであり、それは先天性のものではないんだけど、なんとなく付け加えてみた。

美人の人は街で知らない人に声掛けられたり、ストーカーの被害にあったり、それなりに大変そうで、私はと言えば「手相見せてください」の人と「モデルにならない?」とか言いながらそれ明らかにエロ雑誌のモデルだろって人と「道教エテクダサイ」の外人にしか声かけられなくて、夜道を歩くのも結構安全であって、それはそれでいいんだけど、でもなんかやっぱり不条理に納得がいかなかったもんだ。

だけど最近、どうせブスなら頭のいいブスになってやんないといけないなーと前向きに考えられるようになってきました。
(っていっても私は別に目も当てられないほどひどい顔してるわけじゃなくて、ブスブス連呼するほどでもないとは思うんだけど、まあこれ主観的な話なのであしからず。)
外見差別はあってしかるべきだと思った方がいい。
そんなことに不条理を感じて憤慨してる時間があるなら、笑える事を探してる方が何倍も得である。し、楽しい。
美人をうらやましがってる間に、本を一冊でも多く読んだ方がいい。

全てを、楽しいという事のために向けた方が、いいのだ。

楽しく生きるぞーー

って言ってもなー何するべかなー
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by kutuganaru | 2007-12-20 21:09

大掃除です年末ですので

雨が降っているので、前に述べたとおり、私のやる気は2%にまで落ち込んだのだが、今日は外に出なくてはならない用事もなければ人に会う用事もなかったのだから別にいいや。
けれども、読みかけの本は昨日すでに読み終えてしまっていたし、内田百閒については、酒のつまみとして頻繁に登場する枝豆のようにちびちびとやりたいので、一日かけて読んだりしたくない。
それでは何をしようかって、もう大掃除しかないじゃないですか、年末ですから。

自慢じゃないが、過去、私の部屋はもう本人でも手が付けられないほどに汚かった。
私が個室を手に入れたのも、同室の妹が不憫でしょうがなかったからだし、実家の私の部屋が廊下に面した割と静かで、リビングにたどり着く前に入れるところに割り当てられたのも、リビングに通された客が私の部屋を目の当たりにしないためであった。
一人暮らしを始めるにあたって、ここは沖縄だし、ゴキブリだって心配だ。という事でかなり気をつけてはいたつもりだけど、ショウジョウバエは何度かすでにわいてるし、今日押し入れを掃除してたら、ゴキブリの死骸を一匹見つけた。
かなり気をつけたつもりでも、この有様である。
私には、部屋をきれいに保つ、という能力が、先天的に欠けているように思えてならない(まあ、平たく言えば、ただのめんどくさがりなんだけど)。

私は兼ねてから、女子の会話の中で、困っちゃうなあもう、と思う事がある。
あの、謙遜、というのか、他人を無闇に褒める、というか、「最近太った」という人に対して「えー全然太ってないじゃーん、あたしのほーが絶対太ってるしー」という、あれである。
話は変わっているように見えるが、まあこちらが本筋なのであしからず。
ここで「最近太った」という場合、その目的は3つある。太ってないと言われることで、自分がまだ大丈夫だという事を確認したい、肉のついてしまった自らの肢体で笑いがとりたい、真剣にやせたいと思っているのでダイエットの方法を模索している最中である。
1つ目の場合先の「エー全然太ってないじゃーんうんぬん」でかたがつく。会話終了めでたしめでたしである。
しかし、2つ目の場合、ウケを狙ったつもりがなんだか慰められちゃって、二重の意味でなんだかなーである。せっかく太ったのに、笑ってすらもらえないのか私は。
3つ目の目的の場合、もうその相手に相談するのは無理そうなので早々退散する他ない。慰めの言葉とか、励ます言葉、もしくは相手の太り具合などどうでもいいのだ。
この「最近太った」という言葉はあくまで主観的なものなのだから、「あたしのほーがうんぬん」ははっきりいって関係ない。
「全然太ってないじゃーん」「いやいや太ったんだって」「えーでもあたしのが太ってるしーこのぜーたくものー」「・・・」めんどくさい。
このやり取りになんのメリットも感じない私は、「太った」という人に対しては、じゃあ今日のバーベキューでは肉食べちゃだめ、という無理難題を押し付けたり、○○ダイエットってゆうのが効くらしいよ、と自ら試してもないダイエット方法を勧めてみたり、する。相手が私よりどんなに痩せていようとも。重要なのは自分の虚しさを徹底的に無視することである。時には大サービスで普段は服の下に隠している、我がものとは思えない下っ腹を触らせて、相手を安心させることまでする場合すらあるのだから、もう虚しさを無視せずには、当然できない。

この例において「全然太ってないじゃーん、わたしのほーが太ってるしー」と言い出す人って言うのは、相手の話題からさりげなく自分の話題にすり替えようとしているのではないだろうか。
「・・わたしのほーが・・・」という返事に対して「いやいや、でもズボンが入らなくなっちゃって」とかなんとか返しても、それはすでにもう、ディスコミュニケーション状態になってはいないだろうか。
まあ本人同士がいいのなら、全然いいんだけど。例えばレジの前でおばさんたちが「私が払うから」「いえいえ私が」などとやっていると、レジに立ってる店員の立場でも、その人たちの後ろで順番待ちをしている客の立場でも、迷惑以外の何者でもない。
遠慮や謙遜や、相手をたてることってゆうのは、度を超えるとただの迷惑行為にしかならない。

って、話がまたそれて来たけども、「太い自慢」の他に「大食い自慢」もよく出没するが、実際ギャル曽根みたいにたくさん食べる人を私はまだ見た事がないし、よく考えたら太った、とか大食いとかが、人より優れているからといって、別に自慢すべきことではない。「髪が多い(もしくは固い)自慢」などが現れると、髪が普通の量であるだけで、なんだか肩身の狭い思いをする時もある。
まあ肩身が狭い思いをするのは私の被害妄想が激しいだけかもしれないが、たまたまものすごく空腹だったときなどに「大食い自慢」の人よりも多く食べてしまうと、これはもう実際に肩身が狭い意外の何者でもなくなってしまう。これは小心者ゆえなのだろうか。

それで最初の話題に戻ると「部屋が汚い自慢」というのをしてくる人がよくいて、「私も結構汚い時あるよー」とだけ言ってみると、「いや私の方が絶対汚いから」とか言うけど実際マックスの状態まで汚い部屋あんたには見せてないけどもし見ても絶対引くなよーと私は思うのである。
「部屋が汚い」ことをしきりに主張していた友人が、なにかのはずみでマックス散らかっている私の部屋をみて、ドン引きしているのを感じたときは、もう本当にただただ悲しかったから、あんな汚い部屋はもう家族にしか見せまい、ってゆうかもう二度とあそこまでは汚くすまい、と心に誓った。
そして、結構着痩せするわたしのことを「絶対言うほど太ってないって」と強く主張してた友人と一緒に風呂に入った時私の下っ腹を見て絶句しているのを見た時もただただ悲しくなったので、もう笑いでもこの腹だけは誰にも見せまいと心に誓った(家族には気持ちいいくらいに爆笑してくれるので、つまらない時はちらっと見せたりもする)。

そんなこんなで、結局その謙遜とか遠慮とか相手をたてるとかしても、別に良い思いする人って結構少ないと思うし、その割に結構高い確率で悲しい思いをするので、この際もうやめちゃいませんか。
みんなでアメリカ人になって、日本のわびさびとか、捨てちゃうっていうのはどうでしょうか。ほんとにそうなったらそれはそれで困るんだけど。

つうか結局何が言いたかったかっていうと、押し入れからゴキブリの死骸が出て来たことをさらっと言っちゃったけど、実は相当ショックだったってことが一番言いたかったです。うう・・・
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by kutuganaru | 2007-12-19 20:14
今日はなぜだか登山の予定で、本部まで行ってはみたのがだ、どうにもこうにも空色は優れんわ、腹が珍しく絶不調だわで、麓までたどり着いたところで結局やる気を失って、登山前、登山後の写真を、登ってもいないのに撮影したのみで、引き返して来てしまった。
曇天は、人のやる気を76%は損なわせる力があることを実感。
ちなみに雨天の場合、私のやる気は残り2%にまで落ち込む。

そんで私にとっては初の古宇利島まで行き、それと本島を繋ぐ橋の上で、これまたなぜだか「グリコ」という基本的には小学生以下しかやらない遊びを1時間くらいやり、友人は見えなくなった相手とのじゃんけんのために40分くらい携帯電話で通話し、当然のごとく充電は絶え、せっかくだから橋の上を全部歩こうと思うのだが、ふと帰りもまた歩いて戻らねばならないことに気づき、足はもうあと3分の1くらいのところで完全にストップ。自転車に乗った小学生やらおじさんやら、レンタカーの観光客やら観光バスの乗客やら、何十人かの人に白い目で見られながら20代の女が4人で、向かい風に抗いながら元来た道を引き返す。
歩くのが苦手は私は終始文句を言い続けるのだが、実は結構気分がいいのだ。
ほどよい運動で腹の調子は完全復活を遂げ、足が多少悲鳴をあげるのを無視し、ゆずを元気に歌いながら、非常に楽しい時は過ぎた。

こんなに楽しかったのは、いつぶりだろう。
なんだか幸せだ。

相変わらず結構ついてないことってゆうのはまあ頻繁に起きるし、まぬけな事ってのはこりゃあもう日常茶飯事である。私の存在自体がそりゃあもうまぬけなものであるから、しょうがないことなのだが。今日の腹痛も含め。
しかし、ついてないことの後には良い事もあるもんで、例えばくだんのバイクの話をすると、友人の親戚のさらに知り合いの人が修理の出来る人で、私のバイクを美浜から持ち帰ってくれてタイヤの交換等をいつの間にか済ませてくれていて、私はその修理の出来る人にまだ一度も会っていないのだが、もう明日には修理の済んだバイクを受け取りにいけばいいという段取りになっていた。
知り合いの知り合いの、さらに知り合いは皆知り合いという沖縄の県民性ビバ!
って果たしてこれが沖縄の県民性なのかどうかは知らないけど、都会育ちでマンションの隣の人の顔もよくわからない私などには、とにかくただただありがたい話である。
バイクの事を話した友人は実に親身になって話を聞いてくれ、その夜雨が降っていたのだが、私のバイクは大丈夫なのかと、わざわざ電話してくれた。
朝のバイトでは、パートのおばちゃんに家から10分ほどかけて歩いて来た事を話すと、帰りに「送ろうか?」と言ってくれた。
いえいえさすがにそれは。10分ですから。

って、もうここには書ききれないけどもなんだか私の周りには愛が溢れてるんだなぁーと、鳥肌もんのことを素直に思えちゃうことが、幸せの所以だろうことは明らかである。
生きてりゃ良い事あるもんだ。

今日の一冊「世界は密室でできている。」舞城王太郎
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by kutuganaru | 2007-12-19 00:48

死にたくない私。

バトル・ロワイアルに巻き込まれている。
私は、生き残りの2人のうちの1人だった。
もう一人は、さして関わりのないデブであった。
私は、弾の2発だけ残った拳銃を所持している。
でも、それは使わない。
デブは、電気で衝撃を食らわす、あの、痴漢防止とか相手を一瞬気絶させるのに有効な武器を持っている。
デブは、なぜか女の子と二人でいて、私を生け捕りにしていた。
建物の中で、私はすでに逃げるのを諦めている。
殺すんなら殺せ、と家なき子の安達祐実ばりに、たかを括っている。私は死ぬのだ。
そう思うと、早く死にたいような気がしてくる。
痛いのだけは避けたい。即死で頼むぜ、である。
デブの仲間の女の方が、私を取り押さえ、デブが私に例の電気を押し付けてくる。
・・・ん?効かない。
痛くもかゆくもないのだ。もっと強く押し付けてみるが、どうにも効かない。
どうやら効果のある人間とない人間がいるらしい。
私は、興ざめしていた。あぁあ、死にたくないけど、どうせ死ぬんなら、いつ死ぬのかビクビクして生き延びるよりも、早く死んじゃいたいなー、どーでもいいけど。くらい冷めきっている。
そんな時、一人の男の子が、まだ生き残っている事が判明した。彼はたぶん、石井君だった。
しかしデブは、私を殺す事しか考えていない。
どうやらあと一人殺せば済むらしい。
じゃあ、石井君でもいいじゃないか、死ぬのは。
そう思って初めて、この予定調和的違和感に気がついた。
繰り返しになるが、これはバトル・ロワイアルである。デブが石井君を殺しても良いし、私がデブを殺しても良い。何でもありなはずである。
なのになんで、私がデブに殺されるって、誰もが思い込んでいて、他の可能性にこんなにも無頓着なのだろうか。
そんなことを考えている間に、デブは私に向かって散弾銃を構えている。
しかし、なぜかなかなか打たない。
私はこういった、死の間際になって妙な打ち明け話を始めたり、感慨に耽ったり、という類いのドラマや映画に、常々疑問を抱いていた。
抱いていたので、死にたくないと思った瞬間に、2発弾の残った拳銃の引き金を引いていた。2発とも、デブの腹に命中した。
デブは、すぐには死ななかった。
それで、悪いな、と思ったのだ。
私は死ぬなら即死がいい、と思っていたのに、脂肪が厚すぎるためか、人間の生命力ということなのかわからないが、デブは即死しなかった。
痛い、と、びっくり、を律儀に混ぜ合わせた顔をこちらに向けていた。
それで私は、彼に駆け寄った。「ごめんね、ごめんね、私、どうしても死にたくなくて」って、当たり前である。誰だって死にたかないだろう。
でもこれは夢の中なので、その辺は曖昧である。
とにかく私は予定調和を狂わせてしまった事、そして期待を裏切った事、クラスメイトを射殺しそうになった事などにかなりのショックを受けていた。

しかし、誰がどんな期待を寄せていたというのか。夢だし。100歩譲って現実だとしても、殺し合いだし。

あーあー、変な夢みちゃったよ。結局デブは、やはり脂肪のおかげなのか人間の生命力なのか知らんけどとにかくなんとか生き延びて、しゃがれた声で揺すってくるんだけど、別にもう殺し合いはどうでもいいらしくて、デブと女の子と石井君と、それからいつの間に登場してたんだか、何人かの女子とともに、私たちが修学旅行にと借りたバスが、空っぽのまま走り去っていくのを土手の上で見るという、ALWAYS三丁目の夕日に限りなく近いラストをもって、私は目を覚ました。

余談だが、この夢は昨日見た映画「題名のない子守唄」と「バトル・ロワイアル」の他に、金八先生の要素も盛り込まれていたように思う。
私の金八への不信感がこのような形で放出されたということか。

もう人は、殺したくないものです。
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by kutuganaru | 2007-12-17 16:34 |

おもしろい国の住人

これは、私が好きな「クワイエットルームにようこそ」に出てくる言葉である。
「クワイエットルームにようこそ」で思い出したけど、私は金銭に余裕が出たら趣味にしようと思っている事がある。DVD収集だ。
収集を始めたらぜひとも手に入れたいと思っている作品を、気の早い話だが、いくつか既に考えてあるので、ここに羅列したいと思う(意味はないけど)。
「スワロウテイル」(本当は岩井俊二BOXみたいのがあれば、全部欲しい)
「茶の味」
「クワイエットルームにようこそ」
「セクシーボイス&ロボ」全巻
・・・え、これだけ?
いやいや、本当はもうちょっとあったはずだ。しかし私の、若年性健忘症を彷彿とさせる物忘れの激しさによって、この4本しか、今は思い出せない。

完全に話は横道にそれてしまったが、そもそもじゃあ横道にそれてない本筋の話なんてもんがあったのかどうか、怪しいものだ。
というか、すでにそんなこと忘れている。持ち前の物忘れの激しさによって。

おもしろい国の住人になるには、天性の才能のようなものが必要であると、私は思う。
おもしろい国の住人になりたいと思っている人は、おそらくその98%くらいはおもしろい国の住人となるべく天性の才能を持ち合わせていない。
私もその一人である。
私などは「クワイエットルーム・・」を見て、読んで、おもしろい国に住んでいなくとも全然生きていけることを確認して、安堵したくちであるが、しかしその、おもしろい国の住人には未来永劫なれない私を勇気づけた松尾スズキ本人は、おもしろい国の住人であり、しかももしその国が本当に存在するのなら、官房長官や、国務次官になっていてもおかしくないほどに、おもしろい国のエリートなのである。
悔しい。おもしろい国に住めないだけでも悔しいのに、その国の純粋なエリートである松尾スズキに、慰められてしまったなんて。悔しすぎて、部屋の対角線を5往復地団駄のみで進めそうである。

そんな私は、今日も松尾スズキに元気づけられてしまった。

今日の私は少々ついてない。
昼過ぎに気が向いたので、北谷に向かった。
向かっている最中の私にとって、北谷とは華やかで輝かしい魅力に溢れた空間であった。
映画館で、年末にやる「世界のCMフェスティバル」のチケットが買える。
ヴィレッジバンガードがある。
エトワスもある。
クリスマスプレゼントなんて柄にもなく選んでみようか。
わくわくで心をいっぱいにして、私は家を出た。
20分くらい走ったころだろうか。急にバイクがふらついて来た。これではやがて転んでしまう。いったん止まってタイヤの具合を確かめると、なるほど、パンクである。
なるほど、じゃない。である、じゃない。そんな事言ってる場合じゃない。
どーすんの、ここら辺全然詳しくないよ。下手に大通りに面してるだけあって、バイク屋なんてありそうな気配すらないよ。バイクで走れば5分くらいの距離だけど、私の目指す映画館やヴィレッジまでは歩くと結構遠いよ。
それでも私はバイクを引いて歩き出した。
それでもというか、その場にしゃがみこんでも、泣きわめいても、足を止めてくれるような通行人もない道で、そんなことをしてもせいぜい車の中からおじさんや若いギャル白い目で見られるだけだから、とりあえず歩き出すほか選択肢がなかった。
すぐに反対側の道にわたろうと思ったのだが、こちら側の道を少し進んだところに、バイク屋っぽい色合いの看板が見える。(水色、白、黄緑)
そこまで必死の思いで歩いてみたが、店はしまっていた。
それからしばらく進むが、こちら側は、基地の側である。あちら側には、店もそこそこある。しかし、この道は片側2車線の広い道路と、無意味な中央分離帯、そしてそこをガンジス川のごとき流れる車が、どう考えても普通の国道を走るスピードを軽々と超えたスピードで走り去っている。
こんな公然とスピード違反が行われるようでいいのか、沖縄!って、私はそんな事が言いたいのではない。とにかく私は次の横断歩道が現れるまで延々基地の横を歩き続けた。体感気温28度である。とにかく暑かった。
ようやく30分近く歩いて、Oトバックスの前までたどり着き、しかし車しか修理してないOトバックスを前に怖じ気づいた私は、Oトバックスの店員に話しかける勇気がどうしても持てず、なんとそこの駐車場を整備してた、ALSOKのおじさんに話しかけてしまった。
「すみません、このへんに、バイク屋さんて・・」
「パンクしちゃったの?」
「はい・・・」
「バイク屋は、日曜ほとんど開いてないからねえ。ここ(Oトバックス)に聞いてみれば?」
「ですよね・・・(うつむいたまま、立ち去らない)」
「じゃあ、ちょっと聞いてみてあげるよ」
!優しい!
しかしこんな優しいALSOKにも関わらず、0トバックスの店員は、氷のごとき冷たい声で「うちは車しかやってないから」の一言で、私を奈落の底に突き落とした。
そりゃあ、私の顔は、中の下か、下の上、下手したら下の中、くらいのひどいもんである。眼鏡もしてたし、むさかったかもしれない。でも、若くて体の小さい女の子くらいには見えると思う。力も結構なさそうに見えるような気がする。そんな私が、額に汗して重たいバイク(小さいけど)押してきたのに、その一言て!!
すっかりやる気をなくした私はさらに10分近く歩き、駐輪場にバイクを止めた後、ヴィレッジで、出会うのである。

松尾スズキ「大人失格」

今やすべての輝きをなくした北谷で、心優しい友人が迎えに来てくれるまでの時間を、ショッピングやお茶などではなく、道ばたで「大人失格」を読んでつぶした。
ここに「まぬけ」な女誕生である。

腹巻きほどの長さしかないスカートをはいてるギャルや、そのギャルがつかむ腕を提供しているやさ男などに白い目で見られながら、必死で笑いを堪えつつ「大人失格」を読んでいる私が、おもしろい国などに住めるわけがない。
入国ビザなどもらえるわけもなければ、もし密入国などしようもんなら密告されて強制送還間違いなしである。

悲しい。

「大人失格」がおもしろければおもしろいほど、私の悲しさは際立つ。
自分の部屋で続きを読みながら、今度は他人の目を気にする事なく馬鹿笑いしながら読んでいるのも、えも言われぬ悲しさが漂う。そして、悲しさが漂えば漂うほど私の周辺はまぬけな空間へと変貌していくのだ。
今も。
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by kutuganaru | 2007-12-17 01:28

走者

走れ、走れ、走れ。

誰かの声が、聞こえる。
その声は、体の底に染み入るように深く、それでいて皮膚をかすめるように軽やかである。
あまりに心地よくて、私は、言われるがままに走っている。
おそらくは、もうずいぶん長い間。

ゴムで出来た、赤い、柔らかな、地面の上である。
一周400メートルのトラックを、もう何周走っただろう。
数える事をやめてしまってから、ずいぶんと時間が経っている気がする。

背の高いマンション、桜の木3本、砲丸投げ、高飛び、幅跳び、応援スタンド、背の高いマンション、桜の木・・・

景色は、回る。
代わり映えもしない。
マンションの、部屋の明かりが付いたり消えたり、風で葉が揺れたり、高飛びのバーの位置がかわったり、選手や応援スタンドの人が行ったり来たり、するのみである。

一方の私は、同じペースで、汗もかかずに、鼻歌も歌わずに、ただひたすら足を左右交互に、前に出すのみ。こちらも、代わり映えもしない。

あの、深く軽やかな声に魅了され、私はずっと走って来たのだが、その声にもすっかり飽きてしまった。飽きてしまったので走っている理由もない。
代わり映えのしない、景色にも自分にも、うんざりだ。
うんざりなのだが、もうずっと、走っていたので、走っていない自分をすっかり忘れてしまった。
この足を止めればいいのだと、頭ではわかっているのだけど、体がもう止まらない。
止まれ、止まれと頭がいくら指示しても、止まり方がわからないのだからしょうがないだろうといった感じで、足は次々と前にでる。

習慣っていうのも厄介なものだなぁ、と思いながら、私はこのままずっと400メートルトラックを走り続ける覚悟を、決めるしかないのだなぁと、すっかり途方に暮れて、しばらくは涙が止まらないのだった。


今日の一本「題名のない子守唄」
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by kutuganaru | 2007-12-15 23:46

浮遊

浮いている。
どこに、とか、どのくらい、とか、そういうことはわからない。
ただ、浮いているのである。

遠くに、光が見える気がする。閉じたまぶたの裏側が、ほの明るくなっているからだ。
しかし、どうしても億劫で、目があけられない。
だから、どの方向から射してくるのか、どんな色をしているのか、よくわからない。

私の体は、どこに浮いているのだろう。
プールなど、水に浮かぶ場合、頭や腹筋に、少しだけ力を加えないと、バランスを崩したり、鼻に水が入りそうになったりするが、今私は、どこにも力を入れていないように思われる。もちろん、長い間同じ場所に力を入れていたので、感覚が麻痺しているということも、ありえるのだけど。
だって、水以外の場所に浮かぶなんてことがあり得るだろうか。
しかしやっぱり、全身のどこにも何かが触れる感じが全くない事が、私が浮いていることを、ひしひしと思わせる。

こんな途方もないことになって、どれだけ悲しいだろうかと思ったが、よくよく自分の気持ちを問いただしてみれば、ちっとも悲しくない。
寂しくもない。もちろん、虚しくも。

ではどんな気持ちなのかと問われれば、それは、無、なのであった。
どんな気持ちもない。
あぁ、浮いているんだなぁ、と思うばかりである。

あぁ、浮いているんだなぁ、と思いながらしばらくはプカプカとやっていたら、何やら時間が気になってしょうがなくなって来た。
私は学生であることを、思い出した。
学生である私は、学校に行かなくてはならないし、生活のために、働かなくてもならない。本も読まねばならないし、友人にメールを送らなくてはならないのだ。

今は何時なのだろうか。
学校に、遅刻していないだろうか。
アルバイトが、無断欠勤でクビになってはいないだろうか。
話題に取り残されていないだろうか。
メールの返事がないからと、友人から仲間はずれにはされないだろうか。
一体、いつまで浮いているんだろうか。

それらがいっぺんに頭の中に浮かんだ瞬間に、私はどうしようもない不安にかられて取り乱し、左右をきょろきょろと見回したものだから、あっという間にバランスを崩し、そのあとはもう、落下するだけで、考えたり、感じたり、ということとは、全く無縁となってしまった。



  映画「シムソンズ」(カーリングわくわく青春スポコンもの(笑いあり))
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by kutuganaru | 2007-12-15 12:39